「何をしているのかな? もしかしてキミには其処にある鍵穴が見えるのかいそうかいそうかいならば開けたくなるよね。大丈夫その鍵ならその錠は開けられるよ。何せその鍵は彼から貰ったというか渡されたというか押しつけられたんでしょう? それはきっと君の中に彼なりの力を見つけ出したからだよ。彼はこの世界の全てでありこの世界は彼だ。だから彼に判らないことはない。ところで君はコガさんでいいんでしたっけ?」
その男は、そこまでを一口で言い切った。
漸く言葉が途切れたかと思って古閑静火は声のした方へ振り返る。半ば彼女を支配していたのは威圧感と強制感。
振り向かねばならぬ、そしてその声の主を確かめねばならぬ。そういった義務感が彼女を操って振り向かせる。
――夕暮れの図書室の片隅、窓枠に座っていたのは白髪の男であった。
昼の一件から気分が乗らず、帰ろうかと思ったが彼女を思いとどまらせたのは放課後に控えていた委員会の仕事であった。
委員長としてサボるわけにはいかない。そのやはり義務感に誘われて静火は午後の授業を受けたのである。と言っても体育は見学したが。
彼女は図書委員会の長であり、図書室の貸し出しの受付の仕事をこなしていたが、しかし今日に限ってあまり来客はない。
点、転と現れる生徒も三分ほどで去ってゆく。そのうちに夕焼けチャイムが鳴り、鴉が塒へと帰ってゆく。
さて静火はといえば図書室のパソコンを使ってあるものを調べていた。
「くるくる様」、「だごん様」、「旧き神」、そして「銀の世界」。
検索にかけてヒットしたことはヒットした。が、学校のセキュリティシステムのせいで見ることが出来ない。
有害サイトから生徒たちを守るためだとはいえども、都市伝説如きに閲覧禁止コードをしかけていいものなのであろうか。
どうも片っ端から「カルト」なり「宗教団体」なりに引っ掛かってしまう。ということはやはりそういった危ない類のモノなのであろうか? 疑うまでもない。
静火は真っ白なモニタから目を離し、ブレザーの隠しポケットに入れた鍵をごそごそと取り出した。途中で何かに突っかかる。装飾過多な工芸品のような鍵だ、突起や意匠が生地にひっかかったのであろう。丁寧に引っ張り出す。
先日見た(と思われる)あの大きな、三十センチ程の鍵をそのまま縮小したかのような造りだ。とにかく軟体動物の触手やら、鱗やら鰭やらのあまり趣味がよいとは言えないものがついている。
さて、果たして何故これを取り出したのであろう? こんなものを取り出しても何も起こらないと思ったのだが。
だが。
「…?」
貸し出し用の道具一式を収める、貸し出しカウンターの下に設けられた棚の奥。
返却印や日時を押印するための道具が入れられた箱の横に、もう一つ、箱があった。箱というよりは金庫、と表現した方が正確かもしれない。
そんなものがそこにあった記憶はなかった。それより彼女が思わず叫びそうになったのはその金庫が薄暗い棚の奥でも銀色に輝きその表面が奇妙な紋様で埋め尽くされていたからだ。
まるで昨日見た(のであろう)、銀色の門のように。
伸ばしてはいけないと思いながら手を伸ばした。触れた。ひんやりと冷たい。しかしどこか暖かさを感じた。さっきまで誰かが触れていたかのような金属の温さだ。まずこれは金属なのだろうか。もしかして何かの生物ではないのだろうか。
…どうしてこんなに飛躍したことを考えていたのか。そちらに気を取られている間に手はしっかりとその金庫を掴んで引っ張り出していた。
横にあった丸椅子の上に置く。そうやって改めて見ると金庫よりは宝箱といった名称の方がお似合いだ。ただそれにしては小さい。世界史の教科書がぎりぎり入るか入らないかといったサイズだ。厚みも国語辞典が一冊辛うじて収まるほどである。
天地を考えたら天になる向きの面には、蝙蝠の翼を広げた蛸のような生き物が描かれている。その目は閉じられていたが直感が彼女に語りかけた。
――これは昨日の「アレ」だ。
地になる面には猫のような足が四本ついている。あくまでもような、の粋だ。どうして猫の足に鱗が生えていよう。それらが前向きになるように静火は箱を回転させた。
側面には何とも形容しがたい者どもが這いうねっていた。膨張、拡散、収縮、凝固、何と表しても正解でまた外れのような図案が面一杯一杯に広がっていた。
彼女の見つけた一番の喩えは深海から湧き上がってくる泡と魚介類の身体の断片と光であったが、それも何か違う。これはどんな作家であっても詩人であっても表現することは不可能だ。
これはきっと人間の考案した、少なくとも正気の人間が象ったモノではない。狂気に呑まれたかあるいは人類とはまったく別の思考回路と文化様式を持った存在が作り出したモノであろう――例えば、神とか。
が、彼女には一箇所だけ理解できる図案があった。図案というよりそれは凹みであった。つまりそれは鍵穴であった。
正面に来る側面の真ん中に、ぽこりと空いた穴。大きさはそれこそ例の鍵にぴったりの。
机の上に放置されていた銀色の鍵を見た。夕焼けを反射して赤黒く輝いているがその本質は銀色だ。それに手を伸ばす、むしろ何処からかのばされた糸が彼女の全神経を操ってそれに手を伸ばさせ指に掴ませようとした。
そして冒頭の長すぎる一言に繋がるのである。
白髪の男は怪しいかといわれれば十分な出で立ちをしていた。まるで先ほどまで砂漠にいたかのような出で立ちである。
元々は白かったであろう外套はぼろぼろで所々茶色く変色し、また頭に巻いた襤褸布は異端の魔術師と言った風でさえある。そのイメージを更に加速させているのは見事なまでの白髪とその下から垣間見える子供のような輝きを秘めた赤い瞳であろう。
先天的に色素が無かったようには見えない。肌は褐色、砂漠の民のものだ。髪も所々黒い筋が見えないわけではない。でも白髪がそれを圧倒している。目はもしかしたら先天的なものかもしれないがそれに関しては保留にしておこう。
その明白なまでに自らを不審者だと名乗り上げる男は、窓枠から木の床へと音もなく降り立った。ちらりと見えた靴は布製だ。
「私はアブドル・アルハザド。人は私を『狂気の詩人』とか『狂えるアラブ人』とか呼ぶけど、まあ君は好きなように呼んでくれればいいよ」
それにしても友好的でざっくばらんな狂人である。その動作一つ一つが役者の身振り手振りのように隙がない。まるで怪しい壺を売りつけているかのようである。それでいて相手も買ってしまいそうである。よくわからない。
彼はひょいっとカウンターを乗り越えて静火の隣へ。椅子がないのでそれに寄りかかる。静火は何を思ったか箱を机の上に移動させて椅子を差し出した。とてもじゃないが不審者相手にすることではない。かといって彼女の頭の中には先日のように叫ぶなり「だごん様」を唱えてみるなりといった発想は無かった。
一方アブドルと名乗った男は一言礼を言ってそれに腰掛ける。それにしても背が高い。静火が小柄なせいもあり、二人の視線はなかなかかち合わない。
「さーてどこから話そうか。どこでもいいんだけど話すところから話しちゃうと絶対狂っちゃうものねえ。そうだとりあえずそれ開けてみない? 中身はクルウからのプレゼントだよ」
物騒なことを言いながらアブドルは銀色の箱と鍵を示した。そうだこれを開けようとしていたんだっけ。しかしそれがどうしてあの謎の少年・鳥山来雨からのプレゼントになるのだというのだ?
それを聞こうかと思ったが止めた。アブドルは満面の笑顔だ。何となくだが今はまともな応答が返ってこないような気分がする。気分がするだけで実はちゃんと返ってきたりして。でもなんだこのニコニコとした機嫌のいい顔は。
…開けよう。それがいい。静火は決心して鍵を握った。彼女の細い指には似合いの、でもどことなく歪な鍵。他のあらゆる銀細工が稚拙な造りに見えてしまうほどの想像を絶した鍵と箱を目の前に、彼女は息を呑んだ。
一体、中には何が入っているのか。
静火は、細い鍵を小さな深淵へと挿入した。
一瞬、鍵を伝って向こう側から何かに引っ張られるような、それこそ吸盤の無数についた腕に絡め取られたかのような感触が彼女の腕を走った。
そして、箱はあっけなく開く。ぎしぎぎぎ、と軋んで天板が持ち上がる。銀色だ。箱の中までもが繊細でいて大胆な銀色の彫刻に溢れている。
図案はどうも蛇のような、虫のような、それも蛆やその類のものを彷彿とさせる生物が絡み合い、睦み合い、まるでそれがひとつの生物を作り出しているかのようなものであった。ホッブズの「リヴァイアサン」の表紙を何となく彷彿とさせる。
そう、きっとこの絵で表されている存在は、王なのだ――王なる蛇の神。蛆の神。虫の神。静火は残念ながら今時の女子高生にありがちな「虫は基本的に嫌い」という症状を持っておらず、どちらかといえば何か精密な機械やマシンを思わせる虫の構造については興味を抱いていた。どうしてこれが動くのだろう。幼い頃から高校にはいるまでずっと一緒に遊んでいた近所のお兄さんのせいだろうか。今でも気づくと授業中に迷い込んできた天道虫や庭にいた蟷螂を観察しているのである。
そちらにばかり気を取られてしまった静火が箱の中身に気づいたのは、それでも十秒も経たない内であった。そちらの方も十分に怪しげな代物だったのである。
‘De Vermis Mysteriis’
重々しいゴシック体の文字が、表紙に躍っている。それは本のようであった。だが本にしては表紙の質感が妙だ。それこそ金属のような鈍い光を宿している。
「箱から出しても別にその本は君を囓ったりしないと思うけど」
「…」
何だか心配のベクトルがずれているような気がするが放っておこう。放っておいて良いのかは謎だが。
此処までくると、むしろ箱の内装に魅せられてしまった静火は、少し躊躇いはしたがその冷たい表紙に触れた。鉄だ。この本の表紙は鉄で出来ている。しかし錆びや劣化は何処にも見あたらない、それこそついさっき打たれて鍛えられて出来たかのような色つやだ。
世界史の教科書よりも小さく、国語辞典よりも薄いその本は重みがあった。何せ表紙、出してから気づいた裏表紙は鋼鉄で出来ており、またどうも頁は羊皮紙らしい。凝った装丁と言うべきか、ないしは置物や装飾品の域に達していると言うべきか。
例のタイトルの下には、壮麗なゴシック体とは真逆の引っ掻いたかのような文字で‘Ludwig Prinn’と記されていた。ルートヴィヒ、はいいのだが、あとはプリンとでも読むのであろうか。厳つい本にしては可愛い著者である、日本語的な意味で。
「成る程、『妖蛆の秘密』か。またマニアックな一冊を彼はセレクトしたね。あっとまだ開かない方が良いと思うよ、いや一応言ってみただけだよ一応。軽く私に話させてくれないかな、君の生命に関わるどころかこの地球というか世界というか『意識』にも関わるお話だからね」
そう言ってアブドルはひょい、と飛び上がる。そのまま宙に停止して、そこにステージか雛壇があるかのようにくるくると移動する。
昨日はここで海の香りがしてきたのだが、今日は違った。砂だ。乾いた空気の音、香り、感触。水を奪われた大地と空気。死を抱擁する荒野の世界がそこには広がっていた。
「君が握っているのは、人類は知らない方が幸せでいられる世界の秘密――。
私も彼らの秘密を知って破滅へと追いやられた人間のひとりだ。あの時の痛みは忘れたくとも忘れられないよ。
彼らはこの地球の外から、もしかしたら私達が『世界』だと思っているこの常識の枠すら飛び越えてやってきたのかも知れない、いわば超越絶対存在。
それをもしかしたら人類は『神』と呼ぶのかも知れないし、『悪魔』と呼ぶのかも知れない。
だが、確実なことはひとつだけ。
――彼らは我々人類のことなんか、ちっとも気にかけちゃ居ないんだ。
私達は何度も彼らに立ち向かったよ。馬鹿だからね。かないっこないんだ。
そこである馬鹿は思い立った。彼らと近づいて、その血を分けて貰おうと。そして絶対的な力を手に入れようと。
――それがその馬鹿はね、成功してしまったんだ。正しくは何人目かの馬鹿だけどね。
そうして生まれた、彼らと我々の血を半分ずつ受け継いだ存在。
…ああ、狂いそうな顔をしているね。見えてるのでしょう、私の周囲で踊り狂う『彼ら』の姿が。
大丈夫、君が使役する権利を手に入れた子達はもっとちゃんとした形をしているよ。何て言えばいいのかな…そんじょそこらにいる蛆とはまた違った姿をしているんだ。まあそれはいいでしょう。それより馬鹿の話ですよ。
薄々感づいて居るんじゃないかな?
彼の者の名はヨグ=ソトース。銀の門の守護者にして鍵にして世界にして時間。全ての包括者であり管理者であり破壊者。
その血を受け継いで生まれたのが、あの少年――クルウ・トリヤマ。
彼の不安定な精神は常に飢えていてね、ほんのちょっとのショックで他者に危害を加えたり殺したり…。
まあしょうがないのさ。…彼は門であり鍵である存在だから、その向こう側と直に繋がってしまう。
向こう側にいるのは…君ならわかるよね。
さて、どうして君にこんな力が渡ったのか――。
残念ながら私にはわからない。けどね、きっとちゃんと意味あってのことさ。
星辰が正しく輝ける夜になれば、全てが組み立ってひとつの形になるのだと思う。
その日まで、君には…四六時中彼に着いてろとは言わないけどね、彼の手伝いをしてやって欲しい。
彼が望んだら、馳せ参じる。…大丈夫、君になら出来る。現に…っと、ここからは話し過ぎかな。
とにかく君には、この本をあげよう。――彼らは意外と寂しがり屋だからね、ちゃんとかまってあげないと君の耳くらいなら囓っちゃうかも。
――さあ、これで私の話は一旦お仕舞いだ。アンコールは受け付けない主義でね。
何か気になったら、クルウに聞くと良い。私も出来るだけ君たちの側にいよう。何せ彼らの存在を人知のものにしてしまった原因の一端は、私にあるのだからね。
…それじゃあまた会えたら、良い夜を。…――」
「…ねえ、知ってる?」
聞き飽きた枕詞。
それでも聞いてやらなくてはいけないのが、人間社会の掟だ。
なんて鬱陶しい。人付き合いなんて切ってしまいたいくらいにこちらは苛ついているのだというのに。
「『銀色バタフライ』、今度はO駅に出たんだって」
「ふうん」
「ふうんって…。アレってさ、人身事故のあとに出るって言うじゃん? なんか気味悪いよねー」
「…」
ふるふると、携帯が震える。
静火はその送信者名を見ると、またかと思って小さくため息。
『今日はM駅辺りが怪しい感じ。また手伝ってくれない?』
でもいいか、と思って返事を出す。
『いいですよ、私の蝶々で良ければ』
友達曰く――。
「ねえ、最近メール多いけどどうしたの? …まさかあんたに限って彼氏とか…」
「違う違う。…すごく良い友達が出来たの」
そう言ってにっこり笑う、その表情は、何かぞくっとするらしい。
まるで狩人が良い獲物を捕まえたかのような、凄惨なものを孕んだ微笑み。
「…そうだ、いいこと教えてあげようか」
「?」
「今夜はM駅に、それ、出るよ。…きっとね」
そうして。
†
続いた! 続いたよちょっと!
前作よりちみっとクトゥルフの細かいお話が入って参りました。
一瞬他の小説群にひっかかるお話も出てきましたね。
そういやアブドルさんはあのアブドルさんですよ。名前をこちらから拝借しているので今回は本人役ってことになるのか…?
次こそ未定ですが、今度は何だか不憫な彼を出したいです。
では!