【H.S.S.-Four】サクソウ、或いは第一の事件への自由落下開始。
2008年 04月 06日
手遅れの世界。
輪の最奥で一際高らかに、踊り上げるのは細き人影。彼は他の誰よりも、真実を曲げずに伝えている。
証は掲げた王冠に、滑らかな素肌に輝く栄光。
形無き、誰一人その尊顔を仰いだことのない神よりも、己の内包する恐怖を信じる、歪んだ世紀の生んだ感情。
「静火さん」
「…はい」
思わず返事が遅れてしまった。が、その基準となる巻き尺はどうしても彼女自身であり、一般的に見れば実に優秀な反応速度である。
小指の先ほども気に止めず、澄が差し出したのは一枚のメモ。
『こんなの?』
台詞の下からは矢印が伸びており、辿らなくとも目にはいるのは、名状し難き物体X。
澄の隠れた特技として、絵が上手いということを静火はわりと最近知った。具体的には二、三日前である。
特に好むのは悪魔や魔物といった異形の類で、澄に指示された分厚い書物を引き抜いた際、本棚からこぼれたスケッチはそのまま売り物になりそうな程。
『職業柄』、そういったものに対して豊富な知識を有する彼女でも、ところがそのメモに描かれたものに関しては無知であった。
四つ足歩行で全身を短い毛で覆われ、耳は驚くほど小さいが口と手は逆に立派だ。そこから生える牙も爪も、人間の胴くらい軽々と引き裂いてしまうであろう。
それでも彼女が『勝てる』と思えたのは、その化け物の大きさが、横に描かれた人間よりも少し大きい程度だったからだ。
…そこまで見て、ようやく気づく。
「…熊?」
「え」
『どうしたんですか御仕さん』
「あ、いや、えっと、その…私もそうだと思いますし、彼女とも意見が合致しました」
『それなら良かった』
電話主が聞きたかったのは、きっと情報の正確な形であろう。
森を哨戒中であった静火の見た『熊』と、森に迷い込んだ少年達の見た『森の主』が万が一、同一でなかったとしたら大変だ。彼らの見たものは本当に主だったという可能性が急激に高まる。
「では、また何かありましたら」
『何もないのが一番ですが…ではでは』
電話が向こうから切れた。
澄は少し馬鹿馬鹿しそうに、自らに向けて笑いかける。
「まさか熊だなんて、思いもしませんでしたよ」
情報を仲介する彼に先入観を与えないよう、静火は遭遇した対象については一言も告げていなかった。
ただ、恐らく主ではないとだけ。万が一に万が一を重ねて、細心の注意の上に会話を進める。
「初日からまた、波瀾万丈ですね」
ようやくここで、降ろされた受話器。フックに重みがかかる音。
骸が彼女の緑の瞳に像を結ぶ。有り得ない視線すら感じるのは、何かを伝えたいからか。
発声器官も何もない彼に辛うじてできたのは、折れそうな指先で大地に言の葉を刻むだけ。それもご丁寧に、こちらが読みやすいような向きで。
“Mement mori.”
そんな成句を、横たわる彼なりに、最大限の必死さで伝えていた。
⇔
『まずは明日の放課後、授業が終わり次第3Bの教室に来なさい。いいわね?』
彼女の名は、蒔夜風歌というらしい。
その人に胸の肉三ポンドを賭けられたかのように、二人はとにかく沈んでいた。
これがある有名な劇と同じ筋書きならば、シャイロックはきちんと制裁を受けることとなる。そんな希望すら、残されていないとなれば。
「まあ、悪い子じゃないんだけどね」
そうフォローするのはロシナンテ、否、カズ。
本来ならばその風采に突っ込まれてもおかしくない人物である。
何せ、ロバの耳に手、蹄。背丈は小学生並。常軌を逸脱どころではない、深すぎる事情がありそうなものを。
「はあ…」
天然ボケをかます柳に対し、突っ込み役に回る大地でさえ、ため息で打ち消す。
「まあ、注意が無かったとはいえ、森に立ち入った罰かな? あそこは本当に危険らしいからね」
「? そうなの?」
姉妹で並ぶ、蘭と雛菊。
蛍光灯の点る廊下に、伸びてゆく影。
時刻はじきに、午後六時をまわる。
これから彼らは寮に戻って、食堂で各自夕飯の時間となる。
「そのあたりはオカ研こそ詳しい筈だぜ? 今年は厳戒体制布かれてるしな」
「ちょっと灸、それは内緒…」
「いいんだよ、縁。…オカ研に関わるとなったら、知らなきゃいけない現実だ」
階段が見えてきた。
空蝶の校舎は特徴的な造りで、空から見れば綺麗な五角形をしている。
とはいえそれも辺だけのようなもの。内部は緑――森を囲うような、配置。
言うなれば壁、その角毎に階段があり、何処も均等に三階構成。
北西の向きに校門があり、
門
中央棟
一般教科棟 森 特別教科棟
女子寮←←生活棟→→男子寮
という状態だ。
現在地は、事務や職員室、講堂といった学園の中枢を担う中央棟。その二階にある保健室。
食堂は男女の寮の中継地点であり、合流と分岐の地点でもある生活棟にある。
一度生活棟を抜けないと、各々の部屋に行けないシステムだ。
そして、目指すはその一階。故に彼らがとったルートは、一般教科棟の廊下を抜けて、生活棟近くの階段を降りるというもの。
「…現実?」
「ああ、現実だ」
訝しむ柳、断る灸。
「どうせだから、軽く話してやるよ」
階段に踏み出す――その瞳は、真剣そのものであった。
⇔
同刻、一般教科棟、一階。
「おや、迷子かい?」
「!」
思わず神速で振り返った。
独りぼっちの放課後、廊下、映画のワンシーンのような夕焼けに染めあげられたモルタルの床。
一歩間違えばホラーであり、
「ああ…いやいや、吃驚させちゃったかな、宮藤さん?」
「お、多能先生…すみません」
「謝らなくていいよ、まだまだ不慣れだろうし。…何処に行くつもりかな?」
「いや、その、何処…とかじゃなくて…」
もう一歩くらい間違えば、ロマンスとなる景色。
頬が熱い、夕日のせいであろうか?
残念ながら、相手の表情は逆光の中。
「…食事まで、暇、でしたから」
「成る程。じゃあ、少しこのあたりを案内しようか」
ロマンスに傾く天秤。
亜梨奈にとっては憧れの、運命すら感じてしまう相手。
あの時、自分を守ってくれた、人。
「…僕も、まさかだったよ。新卒採用でこんな形になるなんて」
彼女の心境を察したのか、話の振り方が慣れている。
微妙な時期に転がり込んで、どこからどうやって、この空気に介入するか。
まだ友達はいない。入学式のどたばたは、クラスメイトと話すチャンスすらくれなかった。
そこに出来た隙間が、これだ。ここから入り込む空気だけで、十分、頼もしい。
「本当、わからないよね」
そう言って――彼は階段に、足をかける。
⇔
同刻、一般教科棟、三階。
「腹減ったなー」
「…刹那、涎垂れてるぞ」
「だらしないなあ」
『生徒会長飼育係』と陰で呼ばれている恭臣は、すかさず彼にハンカチを投げる。
片手にはコーラ、未開封。エネルギッシュな赤が、まるで今は魅力を欠いている。
辺りは真っ赤、じきに真っ黒。黄昏の笑みが空に浮かんで。
口数少なに書類を抱きかかえた真訪も、この時ばかりは笑ってしまった。
慣れ親しんだ、気の置けない、あまりにすてきなさんにんぐみ。
『二十五番、夜神刹那。俺がドラムやるから、それ以外募集中』
クラスでの自己紹介にて、一番最後の間抜け面が放った台詞は今でも心に突き刺さっている。
それから大した間も置かず、ノリと勢いでバンドを組んで、互いのことを深く知って。
それでもまだ、このバカな会長、略してバ会長の駄目さ加減。
「夕飯、なんだろ」
「さあ…でも梨乃さんはりきってたな、今日はハレの日だし」
「? 晴れてるのは当たり前だろ?」
「…。真訪、こいつ無視しようぜ」
「ああ、望むところだ」
「な、なんだよお前らだけ!」
その謎は、ただただ深まるばかりである。
苦笑しながらさしかかる教室、がらんと流石に無人の様子。
――いや、そうか?
「…」
「どうした」
いきなり真面目な顔の刹那。
いくら馬鹿だのアホだの言われても、見捨てられない理由がここにある。
やけに、勘が働くのだ。
「…誰かいたな」
「人間か?」
「さあ」
「…」
「少し危険な感じだった」
名は体を表すのであろうか。
彼が掴むのは、ほんの刹那の出来事。
「腹減ってなけりゃなあ…きっちりわかったのに」
だがいかんせん、これである。
本日何度目かのため息と苦笑をしつつ、
「…離れようか」
「ああ」
三人は階段を下ろうと、歩を早めた。
⇔
同刻、一般教科棟、森に面した外壁。
「…」
一人の少女が、窓枠に手をかけて、ぶら下がっていた。
刹那が察知したのは、十中八九、彼女のことであろう。
端正な顔立ちを少し歪め、何事か考えたその後に、空いている左手を器用に使い、携帯電話をさっと取り出す。
右手だけで全体重を支え、苦しげもなく会話を吐き出すハスキーボイス。
「もしもし…――第一幕が、始まりますよ」
⇔
耳障りな音。
ガラスを爪で引っかき回す、それでいて一回きりの邪念。
それに気を取られたからであろうか。
「あ、白」
「え…」
カズの空気の読めないコメントと、わけのわからない蘭の反応が、話し手と同時に自由落下してゆく。
全員が現実を掴まえた時、彼らは素敵に『落ちていた』。
「ひっ…」
思わず手を伸ばして、こすれた指先はシャツの感触。
セクハラまがいの体勢であったが、今はそんな場合ではない。どちらかといえば叫ばずに助かった。
亜梨奈をしっかりと保持している、多能の腕。
「ばふっ!」
奇妙な断末魔をあげ、刹那は床に軽く叩きつけられた。
その直後から襲う、衝撃、衝撃、衝撃のコンボ。何回だかは果たして数え切れず仕舞い。
「カズ…」
「あんた最悪…」
「ちょ、お姉さまがた、降りておりて!」
一番上で、早速制裁の拳を振り上げた灸と縁。
…どうやらちゃっかり、スカートの中を覗いてしまったらしい。
被害者はといえば心此処に在らずという風で、呆然と降りた床にへたり込む。
一番下で暴れているのは、柳と大地だ。
「なんだあ、コレ。防犯対策かなんか?」
「流石に違うんじゃ…ほら柳、立ちなよ」
「ああ」
隣では亜梨奈が多能にお礼を言い、なんだかちょっぴりいい雰囲気。
だが、楽観視はどう考えてもできない。
「何処だよ、ここ」
見た目は、学校の階段。
だが、窓から差し込む光は碧…夕焼けの朱ではない。
彼らがいるのは踊り場、見上げれば十重二十重に連なる階段の塔。
「知らないのかよ、バ会長」
「そういう灸こそ知ってんのかよ」
「あぁ!? やるってのかこのく」
「はいはいはいはい、二人とも落ち着いて」
ぱんぱん、と縁が歯切れよく手を叩いて、制止。
その音が、どこまでも反響していく。
上にも下にも染み渡る、観測結果。
「続いてやがるな…」
「少し上がってみる?」
「いや…それは止めた方がいいよ、綿池さん」
多能が止めにかかった。片手は相変わらず、亜梨奈の肩に触れていたが。
それがまるで、何処にも行かないよう制しているように見えてしまい、なんだか落ち着かない。
一方の亜梨奈は、顔色がすこぶる悪い。彼がいなければ倒れてしまいそうなレベルだ。
「先生は…えっと…」
「多能迅、1Aの担任で担当科目は保健体育。君の噂は職員室で聞いているよ、色々と凄いって」
「あ、はあ…」
「でもこういう時にまで体力に頼っちゃいけないね。それに、耳は良い方ならわかると思うけど…」
まだ遠くに、音が聞こえるような錯覚。
今放たれたこの言葉すら、遠くとおくへ駆けだしてゆく。
「うん、果てがない風に聞こえた」
「…。『バベルの無限階段』か」
落下の衝撃で暫くは飲めないであろうコーラを、傍らに置く。
恭臣の発言は、まさに騒ぎの核心を突いていた。
「畜生、頼りになる奴がこういう時に限ってさっぱりいねえ」
「どうする…応援も期待できないだろうし、この勢いじゃ」
「? 期待できないって…」
「ああ、新入生はご存じないよね? あまりいい話じゃなくて悪いんだけど」
縁の断りは、あってもなくても、あまりその後の展開は変わらなかったように、柳には思えた。
大地でさえも、朧気にしかその話はつかめていない。
要は、この『バベルの無限階段』は異次元のようなもので、他の次元、すなわち外部からの干渉は受けないということだ。
少なくとも、一般的な人間の力では。
「ところがどっこい、ここにいるのは一般的な人間ばっか、ってことか」
「ああ、こればかりはどうしようもねえ…」
「…いや、そうでもないかも」
次の、一つ上の踊り場の直前に座り、独り言のように呟いたのはカズ。
ひっきりなしに動く耳、アンテナのようにピンと張る尻尾。
「ちょっぴりだけど、隙間がある。これなら、電波くらいなら…通る、かも」
「え、あ、えっと…」
大地はポケットから携帯を取り出す、黒革のシンプルなストラップをつけた赤いボディ。
一瞬多能に目配せして、頷きで許可、電源を点ける。
一方の柳は、カズを見ていた。
「…あ、あの、柳君…? 僕に何か?」
「いや…その、」
突っ込むべきか否か、それが問題だ。
今日会ったばかりの先輩に、何故ロバ? と聞くのも変な話。
「凄いや…もしかして気づいてた? 『違和感』に」
「真訪、禁則事項をそんなぺらぺらと…」
「いいんだよ刹那。見たとこ、四人とも気づいてるみたいだし」
なんだか妙に嬉しそうだ。
まるで、同胞を見つけたかのような、子供めいた眼差し。
「彼は――」
携帯のバイブが二箇所で、鳴り始めた。
一つはこちらからかけても繋がらず、諦めかけていた大地。
もう一つは不安そうな蘭に寄り添い、どっちが妹だかわからない雛菊。
二人は丁度隣にいた多能――右から大地、多能、雛菊の順番で、柳には見えた――の方を見つつ、通話ボタンを押した。
『やっと繋がった! ねえ大地君、何処行っちゃったの? 寮母さんが血眼になって探してたけど…』
「葵か! それにしても…」
声が遠くにぶれて、明瞭には聞こえない。
電波状態がすこぶる悪い。いつ切れるかわからないような、一本の針の上に立つかのような不安定さ。
すぐ側ではやはり同じように、雛菊が不器用な会話を繰り広げている。
「雛菊、誰から」
「水城ちゃん」
『柳もそこにいるの? さっきから洋輔が電話してるのに出ないから…』
そう言われて初めて、柳は己の携帯電話を確認する。
蘭や灸、恭臣に縁、真訪、カズも確認するが、見事に圏外。着信履歴も綺麗にゼロ。
こうなると不思議なのが、一メートルも雛菊と離れていないのに、何故か繋がらない同じ携帯会社の縁や真訪だ。
何が違うと思いながら、行動に出たのは多能。二人の携帯を「ちょっといい?」と借り受ける。
右手に大地の赤、左手に雛菊の白。
「いいかい、通話状態にしたままだよ。
仲井さんはそこで待機。
君には本部係と連絡係をやってもらうことにする。
鳩場君は寮母さんの所へ。
彼女に電話をかけてもらって、まずは事務室の方に。
『一般教科棟と生活棟の間にある階段の封鎖』をお願いしてほしい。
次に職員室、阿倍野先生と八雲先生を至急呼びだしてもらう。
ただし、一般教科棟と生活棟の間にある階段には近づかないように、と。
合流場所は、君たちのいる食堂で構わない。
今の指示が全部済んだら、仲井さんがそのことを報告。
…そうだ鳩羽君。寮母さんに電話を頼むとき、合い言葉がいる。
一度しか言わないから、よく覚えていて」
彼の唇が刻む、ひとつのうた。
「メメント・モリ」
⇔
□蒔夜風歌/マキヤフウカ [3B]
…オカルト研究部部長、綺麗な人には毒だらけという言葉がぴったり。
⇔
また暫く停滞…かな…。
[BGM:NightmeRe/SNoW]
輪の最奥で一際高らかに、踊り上げるのは細き人影。彼は他の誰よりも、真実を曲げずに伝えている。
証は掲げた王冠に、滑らかな素肌に輝く栄光。
形無き、誰一人その尊顔を仰いだことのない神よりも、己の内包する恐怖を信じる、歪んだ世紀の生んだ感情。
「静火さん」
「…はい」
思わず返事が遅れてしまった。が、その基準となる巻き尺はどうしても彼女自身であり、一般的に見れば実に優秀な反応速度である。
小指の先ほども気に止めず、澄が差し出したのは一枚のメモ。
『こんなの?』
台詞の下からは矢印が伸びており、辿らなくとも目にはいるのは、名状し難き物体X。
澄の隠れた特技として、絵が上手いということを静火はわりと最近知った。具体的には二、三日前である。
特に好むのは悪魔や魔物といった異形の類で、澄に指示された分厚い書物を引き抜いた際、本棚からこぼれたスケッチはそのまま売り物になりそうな程。
『職業柄』、そういったものに対して豊富な知識を有する彼女でも、ところがそのメモに描かれたものに関しては無知であった。
四つ足歩行で全身を短い毛で覆われ、耳は驚くほど小さいが口と手は逆に立派だ。そこから生える牙も爪も、人間の胴くらい軽々と引き裂いてしまうであろう。
それでも彼女が『勝てる』と思えたのは、その化け物の大きさが、横に描かれた人間よりも少し大きい程度だったからだ。
…そこまで見て、ようやく気づく。
「…熊?」
「え」
『どうしたんですか御仕さん』
「あ、いや、えっと、その…私もそうだと思いますし、彼女とも意見が合致しました」
『それなら良かった』
電話主が聞きたかったのは、きっと情報の正確な形であろう。
森を哨戒中であった静火の見た『熊』と、森に迷い込んだ少年達の見た『森の主』が万が一、同一でなかったとしたら大変だ。彼らの見たものは本当に主だったという可能性が急激に高まる。
「では、また何かありましたら」
『何もないのが一番ですが…ではでは』
電話が向こうから切れた。
澄は少し馬鹿馬鹿しそうに、自らに向けて笑いかける。
「まさか熊だなんて、思いもしませんでしたよ」
情報を仲介する彼に先入観を与えないよう、静火は遭遇した対象については一言も告げていなかった。
ただ、恐らく主ではないとだけ。万が一に万が一を重ねて、細心の注意の上に会話を進める。
「初日からまた、波瀾万丈ですね」
ようやくここで、降ろされた受話器。フックに重みがかかる音。
骸が彼女の緑の瞳に像を結ぶ。有り得ない視線すら感じるのは、何かを伝えたいからか。
発声器官も何もない彼に辛うじてできたのは、折れそうな指先で大地に言の葉を刻むだけ。それもご丁寧に、こちらが読みやすいような向きで。
“Mement mori.”
そんな成句を、横たわる彼なりに、最大限の必死さで伝えていた。
⇔
『まずは明日の放課後、授業が終わり次第3Bの教室に来なさい。いいわね?』
彼女の名は、蒔夜風歌というらしい。
その人に胸の肉三ポンドを賭けられたかのように、二人はとにかく沈んでいた。
これがある有名な劇と同じ筋書きならば、シャイロックはきちんと制裁を受けることとなる。そんな希望すら、残されていないとなれば。
「まあ、悪い子じゃないんだけどね」
そうフォローするのはロシナンテ、否、カズ。
本来ならばその風采に突っ込まれてもおかしくない人物である。
何せ、ロバの耳に手、蹄。背丈は小学生並。常軌を逸脱どころではない、深すぎる事情がありそうなものを。
「はあ…」
天然ボケをかます柳に対し、突っ込み役に回る大地でさえ、ため息で打ち消す。
「まあ、注意が無かったとはいえ、森に立ち入った罰かな? あそこは本当に危険らしいからね」
「? そうなの?」
姉妹で並ぶ、蘭と雛菊。
蛍光灯の点る廊下に、伸びてゆく影。
時刻はじきに、午後六時をまわる。
これから彼らは寮に戻って、食堂で各自夕飯の時間となる。
「そのあたりはオカ研こそ詳しい筈だぜ? 今年は厳戒体制布かれてるしな」
「ちょっと灸、それは内緒…」
「いいんだよ、縁。…オカ研に関わるとなったら、知らなきゃいけない現実だ」
階段が見えてきた。
空蝶の校舎は特徴的な造りで、空から見れば綺麗な五角形をしている。
とはいえそれも辺だけのようなもの。内部は緑――森を囲うような、配置。
言うなれば壁、その角毎に階段があり、何処も均等に三階構成。
北西の向きに校門があり、
門
中央棟
一般教科棟 森 特別教科棟
女子寮←←生活棟→→男子寮
という状態だ。
現在地は、事務や職員室、講堂といった学園の中枢を担う中央棟。その二階にある保健室。
食堂は男女の寮の中継地点であり、合流と分岐の地点でもある生活棟にある。
一度生活棟を抜けないと、各々の部屋に行けないシステムだ。
そして、目指すはその一階。故に彼らがとったルートは、一般教科棟の廊下を抜けて、生活棟近くの階段を降りるというもの。
「…現実?」
「ああ、現実だ」
訝しむ柳、断る灸。
「どうせだから、軽く話してやるよ」
階段に踏み出す――その瞳は、真剣そのものであった。
⇔
同刻、一般教科棟、一階。
「おや、迷子かい?」
「!」
思わず神速で振り返った。
独りぼっちの放課後、廊下、映画のワンシーンのような夕焼けに染めあげられたモルタルの床。
一歩間違えばホラーであり、
「ああ…いやいや、吃驚させちゃったかな、宮藤さん?」
「お、多能先生…すみません」
「謝らなくていいよ、まだまだ不慣れだろうし。…何処に行くつもりかな?」
「いや、その、何処…とかじゃなくて…」
もう一歩くらい間違えば、ロマンスとなる景色。
頬が熱い、夕日のせいであろうか?
残念ながら、相手の表情は逆光の中。
「…食事まで、暇、でしたから」
「成る程。じゃあ、少しこのあたりを案内しようか」
ロマンスに傾く天秤。
亜梨奈にとっては憧れの、運命すら感じてしまう相手。
あの時、自分を守ってくれた、人。
「…僕も、まさかだったよ。新卒採用でこんな形になるなんて」
彼女の心境を察したのか、話の振り方が慣れている。
微妙な時期に転がり込んで、どこからどうやって、この空気に介入するか。
まだ友達はいない。入学式のどたばたは、クラスメイトと話すチャンスすらくれなかった。
そこに出来た隙間が、これだ。ここから入り込む空気だけで、十分、頼もしい。
「本当、わからないよね」
そう言って――彼は階段に、足をかける。
⇔
同刻、一般教科棟、三階。
「腹減ったなー」
「…刹那、涎垂れてるぞ」
「だらしないなあ」
『生徒会長飼育係』と陰で呼ばれている恭臣は、すかさず彼にハンカチを投げる。
片手にはコーラ、未開封。エネルギッシュな赤が、まるで今は魅力を欠いている。
辺りは真っ赤、じきに真っ黒。黄昏の笑みが空に浮かんで。
口数少なに書類を抱きかかえた真訪も、この時ばかりは笑ってしまった。
慣れ親しんだ、気の置けない、あまりにすてきなさんにんぐみ。
『二十五番、夜神刹那。俺がドラムやるから、それ以外募集中』
クラスでの自己紹介にて、一番最後の間抜け面が放った台詞は今でも心に突き刺さっている。
それから大した間も置かず、ノリと勢いでバンドを組んで、互いのことを深く知って。
それでもまだ、このバカな会長、略してバ会長の駄目さ加減。
「夕飯、なんだろ」
「さあ…でも梨乃さんはりきってたな、今日はハレの日だし」
「? 晴れてるのは当たり前だろ?」
「…。真訪、こいつ無視しようぜ」
「ああ、望むところだ」
「な、なんだよお前らだけ!」
その謎は、ただただ深まるばかりである。
苦笑しながらさしかかる教室、がらんと流石に無人の様子。
――いや、そうか?
「…」
「どうした」
いきなり真面目な顔の刹那。
いくら馬鹿だのアホだの言われても、見捨てられない理由がここにある。
やけに、勘が働くのだ。
「…誰かいたな」
「人間か?」
「さあ」
「…」
「少し危険な感じだった」
名は体を表すのであろうか。
彼が掴むのは、ほんの刹那の出来事。
「腹減ってなけりゃなあ…きっちりわかったのに」
だがいかんせん、これである。
本日何度目かのため息と苦笑をしつつ、
「…離れようか」
「ああ」
三人は階段を下ろうと、歩を早めた。
⇔
同刻、一般教科棟、森に面した外壁。
「…」
一人の少女が、窓枠に手をかけて、ぶら下がっていた。
刹那が察知したのは、十中八九、彼女のことであろう。
端正な顔立ちを少し歪め、何事か考えたその後に、空いている左手を器用に使い、携帯電話をさっと取り出す。
右手だけで全体重を支え、苦しげもなく会話を吐き出すハスキーボイス。
「もしもし…――第一幕が、始まりますよ」
⇔
耳障りな音。
ガラスを爪で引っかき回す、それでいて一回きりの邪念。
それに気を取られたからであろうか。
「あ、白」
「え…」
カズの空気の読めないコメントと、わけのわからない蘭の反応が、話し手と同時に自由落下してゆく。
全員が現実を掴まえた時、彼らは素敵に『落ちていた』。
「ひっ…」
思わず手を伸ばして、こすれた指先はシャツの感触。
セクハラまがいの体勢であったが、今はそんな場合ではない。どちらかといえば叫ばずに助かった。
亜梨奈をしっかりと保持している、多能の腕。
「ばふっ!」
奇妙な断末魔をあげ、刹那は床に軽く叩きつけられた。
その直後から襲う、衝撃、衝撃、衝撃のコンボ。何回だかは果たして数え切れず仕舞い。
「カズ…」
「あんた最悪…」
「ちょ、お姉さまがた、降りておりて!」
一番上で、早速制裁の拳を振り上げた灸と縁。
…どうやらちゃっかり、スカートの中を覗いてしまったらしい。
被害者はといえば心此処に在らずという風で、呆然と降りた床にへたり込む。
一番下で暴れているのは、柳と大地だ。
「なんだあ、コレ。防犯対策かなんか?」
「流石に違うんじゃ…ほら柳、立ちなよ」
「ああ」
隣では亜梨奈が多能にお礼を言い、なんだかちょっぴりいい雰囲気。
だが、楽観視はどう考えてもできない。
「何処だよ、ここ」
見た目は、学校の階段。
だが、窓から差し込む光は碧…夕焼けの朱ではない。
彼らがいるのは踊り場、見上げれば十重二十重に連なる階段の塔。
「知らないのかよ、バ会長」
「そういう灸こそ知ってんのかよ」
「あぁ!? やるってのかこのく」
「はいはいはいはい、二人とも落ち着いて」
ぱんぱん、と縁が歯切れよく手を叩いて、制止。
その音が、どこまでも反響していく。
上にも下にも染み渡る、観測結果。
「続いてやがるな…」
「少し上がってみる?」
「いや…それは止めた方がいいよ、綿池さん」
多能が止めにかかった。片手は相変わらず、亜梨奈の肩に触れていたが。
それがまるで、何処にも行かないよう制しているように見えてしまい、なんだか落ち着かない。
一方の亜梨奈は、顔色がすこぶる悪い。彼がいなければ倒れてしまいそうなレベルだ。
「先生は…えっと…」
「多能迅、1Aの担任で担当科目は保健体育。君の噂は職員室で聞いているよ、色々と凄いって」
「あ、はあ…」
「でもこういう時にまで体力に頼っちゃいけないね。それに、耳は良い方ならわかると思うけど…」
まだ遠くに、音が聞こえるような錯覚。
今放たれたこの言葉すら、遠くとおくへ駆けだしてゆく。
「うん、果てがない風に聞こえた」
「…。『バベルの無限階段』か」
落下の衝撃で暫くは飲めないであろうコーラを、傍らに置く。
恭臣の発言は、まさに騒ぎの核心を突いていた。
「畜生、頼りになる奴がこういう時に限ってさっぱりいねえ」
「どうする…応援も期待できないだろうし、この勢いじゃ」
「? 期待できないって…」
「ああ、新入生はご存じないよね? あまりいい話じゃなくて悪いんだけど」
縁の断りは、あってもなくても、あまりその後の展開は変わらなかったように、柳には思えた。
大地でさえも、朧気にしかその話はつかめていない。
要は、この『バベルの無限階段』は異次元のようなもので、他の次元、すなわち外部からの干渉は受けないということだ。
少なくとも、一般的な人間の力では。
「ところがどっこい、ここにいるのは一般的な人間ばっか、ってことか」
「ああ、こればかりはどうしようもねえ…」
「…いや、そうでもないかも」
次の、一つ上の踊り場の直前に座り、独り言のように呟いたのはカズ。
ひっきりなしに動く耳、アンテナのようにピンと張る尻尾。
「ちょっぴりだけど、隙間がある。これなら、電波くらいなら…通る、かも」
「え、あ、えっと…」
大地はポケットから携帯を取り出す、黒革のシンプルなストラップをつけた赤いボディ。
一瞬多能に目配せして、頷きで許可、電源を点ける。
一方の柳は、カズを見ていた。
「…あ、あの、柳君…? 僕に何か?」
「いや…その、」
突っ込むべきか否か、それが問題だ。
今日会ったばかりの先輩に、何故ロバ? と聞くのも変な話。
「凄いや…もしかして気づいてた? 『違和感』に」
「真訪、禁則事項をそんなぺらぺらと…」
「いいんだよ刹那。見たとこ、四人とも気づいてるみたいだし」
なんだか妙に嬉しそうだ。
まるで、同胞を見つけたかのような、子供めいた眼差し。
「彼は――」
携帯のバイブが二箇所で、鳴り始めた。
一つはこちらからかけても繋がらず、諦めかけていた大地。
もう一つは不安そうな蘭に寄り添い、どっちが妹だかわからない雛菊。
二人は丁度隣にいた多能――右から大地、多能、雛菊の順番で、柳には見えた――の方を見つつ、通話ボタンを押した。
『やっと繋がった! ねえ大地君、何処行っちゃったの? 寮母さんが血眼になって探してたけど…』
「葵か! それにしても…」
声が遠くにぶれて、明瞭には聞こえない。
電波状態がすこぶる悪い。いつ切れるかわからないような、一本の針の上に立つかのような不安定さ。
すぐ側ではやはり同じように、雛菊が不器用な会話を繰り広げている。
「雛菊、誰から」
「水城ちゃん」
『柳もそこにいるの? さっきから洋輔が電話してるのに出ないから…』
そう言われて初めて、柳は己の携帯電話を確認する。
蘭や灸、恭臣に縁、真訪、カズも確認するが、見事に圏外。着信履歴も綺麗にゼロ。
こうなると不思議なのが、一メートルも雛菊と離れていないのに、何故か繋がらない同じ携帯会社の縁や真訪だ。
何が違うと思いながら、行動に出たのは多能。二人の携帯を「ちょっといい?」と借り受ける。
右手に大地の赤、左手に雛菊の白。
「いいかい、通話状態にしたままだよ。
仲井さんはそこで待機。
君には本部係と連絡係をやってもらうことにする。
鳩場君は寮母さんの所へ。
彼女に電話をかけてもらって、まずは事務室の方に。
『一般教科棟と生活棟の間にある階段の封鎖』をお願いしてほしい。
次に職員室、阿倍野先生と八雲先生を至急呼びだしてもらう。
ただし、一般教科棟と生活棟の間にある階段には近づかないように、と。
合流場所は、君たちのいる食堂で構わない。
今の指示が全部済んだら、仲井さんがそのことを報告。
…そうだ鳩羽君。寮母さんに電話を頼むとき、合い言葉がいる。
一度しか言わないから、よく覚えていて」
彼の唇が刻む、ひとつのうた。
「メメント・モリ」
⇔
□蒔夜風歌/マキヤフウカ [3B]
…オカルト研究部部長、綺麗な人には毒だらけという言葉がぴったり。
⇔
また暫く停滞…かな…。
[BGM:NightmeRe/SNoW]
by SSS-in-Black
| 2008-04-06 18:58
| 【School】